前年度の『僕は夢を見た、こんな満開の桜の樹の下で』に引き続き、2年連続で東京文化会館での事業を依頼された公演が、神田慶一自身としては第8作目となるこの新作歌劇です。それまでの5年間に蓄積した創作の苦しみから解放される為に2002年からスタンダード・オペラへとシフト・チェンジしたサカナ団でしたが、この有り難い委嘱依頼に喜んで精を出す事となります。(なにしろ98年の「クローンのジュリエット」から数えても、7年間に6本の新作オペラを創作している事になる訳ですから、作品内容はともかく、このウルトラ・ハイ・ペースだけを取れば、驚異的なものだと言えるのではないでしょうか。)
さてその様なペースの中で創られた本作は、規模だけを見れば、過去に行ったどの新作よりも巨大な作品となりました。まず作品自体の長さが長い(!)点。これは前作で上手く行った作者同一システムの弊害とも呼べる点です。書き進めるうちに客観的にコンパクトにする視点を失う危険性が常にあるという事の見事な例と言えるでしょう。次に出演者の数が多い(!)点。これはそれまでにサカナ団が成果を得て来た<市民オペラ>的創作プロセスを東京都のレベルで実現した結果です。敢えて自慢するならば、都のレベルで<市民オペラ>を創り上げたのは、これが史上初めての試みだとの事。その結果集った合唱、役者、舞踊手、そしてサカナ団のオーケストラ、ソリスト、と出演者の数を総合すると何と200人を超える数になるのです。
この巨大な一大イベントは、さすがにその群衆シートもなれば十分な力感を発揮し、同時に<市民オペラ>ならではの独特の迫力、臨場感をも生み出す、という効果を得る事が出来ました。某新聞レビューに載った「屈指のオペラ」と言う表現は、この辺りの要素から生まれたものだと推察します。
しかし作者自らの分析から言わせて頂くならば、この作品のテーマは実は非常にパーソナルな、そして同時に閉ざされた視点から描かれたものです。
昭和30年代という神田自身が経験していない日本(東京、浅草)の有り様を描いたこの作品は、想像上の「理想的な活力溢れる文化形態」に対しての憧れの要素と、それを失ってしまった「現代社会」に対しての警告の要素が混在しているものです。この2つの時代の行き来は、それまでの噛んだ作品同様に、"コインの裏表"的発想から来るもので、もちろん対を成すのは前作である「桜の樹」である事は言うまでもありません。
この怒濤の如く演じられる巨大<市民オペラ>も、やがて時と共に見直され、ダイエットに成功した暁には、前作同様の、「日本の新たなスタンダード」の仲間入りをする資格を十分に擁している作品ではないかと、作者自らは思い、そう願っています。それは作者の過剰な自意識と言うよりも、何しろ前作以上に日本的な旋律美を追求し、また現在に至るまで様々な文化の混在と融合を繰り返して来た日本という国だからこそ生み出しうる"偉大なる混沌"がこの作品内には内在している様に思えるからです。作者自身はこの作品を、アイデンティティを喪失しつつある民族のセンチメンタルな憧憬と、現代病とでも呼ぶべき自閉症的な躁鬱感が産み落とした、実に今日日本的な過剰に巨大な妄想の産物であると位置づけています。だからこそ、真に日本を代表するオペラ作品として認知される"輝かしい未来"が約束されている様な妄想に捕われてもいるのです。
写真:長谷川清徳
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